盛岡バスセンターの今、昔、そしてこれからを
様々な視点で読み解くルポルタージュ
vol.2 歴史編
「まちの記憶をつむぐ場所」
新しいハブ機能として、秋の開業を待つ「盛岡バスセンター」。市民や観光客にとって、バスが街なかを行き来するのは当たり前のことだが、全国初のバスターミナルとして開業した62年前は、市民から大きな注目を浴びたと聞く。今回は、長きに渡って愛された、かつての盛岡バスセンターを振り返ってみる。
地域文化や交流の結節点。
2014年の旧盛岡バスセンター
1960年4月20日。盛岡バスセンターが開業した当時は、日本全体が高度経済成長のまっただ中だった。都内では、前年に東京タワーが完成したばかりで、数年後のオリンピック開催に向け、インフラ整備が一気に加速。盛岡でも各バス会社が各々に発着所を設置していたが、市内の狭い道路では交通渋滞が問題化し、市民の苦情が増えていったという。
そこで、県内のバス会社6社や商店街の出資による、(株)盛岡バスセンターが設立され、自動車ターミナル法適用第1号の同バスセンターが誕生したのである。開業時のパンフレットを見ると、“県都のセンター、サービスセンター、味のセンター、憩いのセンター、広告センター”というように、さまざまな表現が用いられており、地域文化や交流の結節点として、人に愛される場になることを願っていたようだ。
当時は1日150台のバスが発着。2階建ての建物は、1階に待合室や乗車券販売所、コーヒースタンド、売店、時計店や理髪店まであり、2階は大食堂と飲食店街、そして屋上では遊園地が営業していた。開業から5年後には、1日およそ350台のバスが行き来し、利用者は1日8,000人に増えていった。1966年に3階を増築した頃のバスセンターは、「迷子が出るほどの混雑ぶりだった」という。
オープン当時の新聞記事、パンフレットより。まさにローカルハブの先駆けだった様子がわかる
建物の設計施工は鹿島建設が担当した。同社の前身である鹿島組2代組長を務めた鹿島精一氏は盛岡出身であり、生涯にわたって故郷・盛岡への愛は大きかったそうだ。このバスセンター施工は、精一氏の息子・守之助氏の代で携わったもの。社を挙げての郷土愛によって誕生した盛岡のランドマークは、2016年9月に解体されるまで、県民のセンターとしての役割を十分に果たしたといえる。
懐かしいバスセンターの記憶を探して。
解体される数年前を記録した写真には、懐かしいバスセンターの空気感があふれている。1階の売店ショーケースにはパン、お菓子、お土産品が並び、並列するコーヒーショップでは、ハチミツをかけていただく「栃みつ焼き」が、手軽なおやつとして人気だった。食堂では、そばやうどん、カレーライスをサッとお腹に入れ、遠方行きのバスに駆け込む人も少なくなかった。中には、そばなどの汁物をテイクアウトして、車内で食べる人もいた、というから驚きだ。
懐かしいバスセンターの内部
通勤通学の会社員や学生、病院通いの高齢者、夜行バスや高速バスを使って遠隔地へ出向く旅行者など、この場所で日常の一コマを過ごした人々の中に、案内ガイドさんの声、バスの音や匂い、車窓からみる風景などは、きっと懐かしいバスセンターの記憶として刻み込まれているのではないだろうか。
発着場とアナウンス室。木製の放送機械が昭和を感じさせる
バスセンターが解体されたあとの土地は、盛岡市が取得。2017年5月、肴町商店街振興組合をはじめ、周辺地域のまちづくり団体などが「盛岡バスセンターおよび周辺地区活性化協議会」を設立し、跡地を借り受け「SIDE-B」と命名した。そして、バスセンターがあってこそ生まれた人の流れや賑わいを維持すべく、地域のイベントや飲食イベントなどを開催し、交流づくりに取り組んだ。
“百万県民のレールのない停車場”として、多くの人に愛されたかつてのバスセンター。実は、取り壊した建物の中から、一つのモノが大事に保管されていた。外壁面に施されていた盛岡バスセンターのロゴである。実は、新しいバスセンターの内部に、そのロゴが掲げられる予定だ。今、少しずつ形を見せる新しい建物。単なるトラフィックハブとしてではなく、ローカルハブとして、何を継承していくか、それは、利用者一人ひとりのミッションなのかもしれない。
旧建物から外され保存されている看板。歴史もこうして引き継がれて行く
[写真はすべて盛岡の地域誌「てくり」19号、28号(発行/まちの編集室 http://www.tekuri.net より。転載、無断使用は禁止します]